心のふるさと 蛇窪神社 由来
神社名 通称:蛇窪神社(へびくぼじんじゃ)正式名称:天祖神社(てんそじんじゃ)
- 旧社格
- 村社
- 旧地名
- 蛇窪
- 旧社名
- 神明社
- 御創建
- 鎌倉時代・西暦1323年頃
- 鎮座地
- 東京都品川区二葉四丁目四番十二号
- 御祭神
- 主神 天照大御神(あまてらすおおみかみ)
- 配祀
- 天児屋根命(あめのこやねのみこと)
応神天皇(おおじんてんのう)
境内社
- 白蛇辨財天社
- 市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)
田心姫神(たごりひめのかみ)
湍津姫神(たぎつひめのかみ) - 石窟
- 白蛇大神
- 蛇窪龍神社
- 蛇窪龍神
- 法密稲荷社
- 稲荷大神
蛇窪神社の由緒よりこれらの神様を総称して蛇窪大明神と奉称致します。

奉納 蛇窪龍神昇降図 画 絵獅匡

奉納 白蛇彫刻 彫刻家 井上 学 様
一.蛇窪神社由緒略記
文永8年(鎌倉時代・1272年)11月10日、北条四朗左近大夫陸奥守重時は、五男の時千代に多数の家臣を与え蛇窪(現在の品川区二葉四丁目付近)に残って当地域を開くよう諭して、自らはこの地を去りました。
その後、時千代は、法圓上人(ほうえんしょうにん)と称して大森(大田区)に厳正寺(ごんしょうじ)を開山し、家臣の多くは蛇窪付近に居住させました。現在、厳正寺の壇徒がこの地域に多いのは、こうした理由によるものです。
文永8年の秋から50年ほどを経た元亨2年(1322年)、武蔵の国(現在の東京・埼玉)一帯が大旱魃となり、飢饉の到来は必至と見られました。このとき、厳正寺の当主、法圓の甥の第二世法密上人は、この危機を救うため、厳正寺の戌亥(北西)の方向にあたる森林の古池のほとりにある龍神社に雨乞いの断食祈願をしました。上人の赤誠(偽りや飾りのない心。まごころ。)と神霊の冥助により、大雨が沛然と降り注ぎ、ついに大危機を免れることができました。
これに感激した時千代の旧家臣たちは、蛇窪に神社を勧請し、神恩に応えて祀りました。これが現在の蛇窪神社の縁起とされています。(荏原区史)
なお 一説には、鎌倉時代に、この地の豪農、森屋氏(現姓森谷氏等の先祖)が建立したものとも伝えられています。
当社の旧社名は神明社でしたが、その後村社に昇格して「天祖神社」に改名されました。
令和元年5月1日より、御大典を記念し、また、地域の発展を祈念して、神社名の問い合わせの多い別称「蛇窪神社」を通称表記に格上げすることになりました。

二.白蛇縁起
鎌倉時代、天祖神社の社殿の左横(現在の消防団詰所付近)に清水が湧き出る洗い場があり、そこに白蛇が住んでいました。

夢巳橋・白龍の滝
時移り、いつのまにか洗い場がなくなり、やむなく白蛇は現在の戸越公園の池に移り住むようになりました。
あるとき、土地の旧家森谷友吉氏の夢枕に白蛇が現れ「一日も早くもとの住みかに帰してほしい」と懇願しました。
森谷氏はこの話を宮司に伝えて、白蛇をもとに戻すよう願い出ました。宮司は辨財天社【琵琶を奏でる姿から音楽や芸能の才能を伸ばし、弁知(知恵)の神、安芸の宮島厳島神社の御分霊である辨財天を祀る】を建立することに決め、現在の駐車場に池を掘り、池の中央に小島を設け、その中の石窟に石祠を造って白蛇を祠ることにしました。古老の話によれば白蛇を迎える日の夜、いよいよお迎えの祝詞を奉上しようとしたとき、それまでの輝くばかりの星空が一天にわかにかき曇り、雷鳴とともに大風が立ち起こり、そのさまは身のすくむ思いだったということです。

龍神の玉
戦後昭和29年に櫻井昌利氏(鳶頭)をはじめ有志の方々の御浄財により、お社は現在地に移され、上屋や辨天池なども造営されました。

蛇松
令和3年4月1日、御鎮座七百年を記念し、氏子崇敬者の御浄財によって、石窟・社殿・辨天池・白龍の滝が立て替えられ、銭洗を新たに造りました。
当地がかつて蛇窪と言われた由来から考えてみても、蛇窪神社は、辨財天様と白蛇との密接な因縁があることが理解されます。 私たちはこの白蛇にあやかって、平素清浄な心と優しさを持って生活して行きたいものです。
三.蛇窪龍神社(元宮)のいわれ
令和3年4月1日、御鎮座七百年を記念し、元宮として「蛇窪龍神社」を建立いたしました。
蛇窪龍神社は、蛇窪神社創建前の神社で、千年以上の歴史があると伝えられ、蛇窪の守護神と称えられております。七夕は、蛇窪龍神社の水まつりの日です。鎌倉時代に龍神様が、旱魃で苦しむこの地に雨を降らせ、大飢饉を救ったことで、龍神様と水恩に感謝する日としています。
7匹の白蛇や全長8メートルの白龍は、昭和50年2月5日、真鍋勝氏の手作りにより奉納されたもので、神様の使いである白蛇が八匹目で白龍になるという言い伝えを表しています。

四.法密稲荷社のいわれ
元亨2年(1322年)に武蔵の国が深刻な大飢饉が訪れた際、厳正寺第二世法密上人は、雨乞いの断食祈願をしました。そして豊作を祈るため、京都伏見稲荷大社の御分霊をお祀りされたと伝わります。江戸後期の新編武蔵風土記稿に末社稲荷社の名が記されております
昭和47年に、神殿・上屋・燈籠などを、櫻井昌利氏をはじめ氏子篤志家の寄進により建て替えられました。
◎法密稲荷社
御鎮座七百年を記念し、雨乞いが行われてから七百年目の令和4年11月1日、氏子崇敬者の御浄財によって、建て替えられました。そして稲荷社の由緒を後世に伝えるため、「法密稲荷社」に改名いたすことになりました。



水掛宝珠
五.大鳥居縁起
旧檜の大鳥居
大正初期、土地の有志が発起人となり、建立されました。
昭和二十年の空襲で、本殿や境内建造物、樹木等が丸焼けになりましたが、大鳥居のみが戦禍を免れ、その不思議な神の御加護により、氏子全体をご照覧くださいました。
昭和四十九年、氏子篤志家の熱意により、銅で修復され、歴史とともに約百年、平成三十年八月に安全性を考慮して、惜しまれつつ解体されました。
新檜の大鳥居
蛇窪神社鎮座七百年記念事業(奉賛募金期間平成三十年十二月二十日~令和三年十二月二十日)の一環として、地域発展のシンボルとなる大鳥居が、令和元年十二月二十六日、氏子崇敬者の御浄財により建立されました。


六.社号標
紀元2600年(昭和15年)奉祝と、当社が村社に昇格したのを記念して建てられたものです。奉祝式典が行われた時、全国の神社で神楽舞「浦安舞」が一斉に奉奏され、現在も続けられています。題字は、当時の東京府知事岡田周造氏の謹書によります。裏面には社号標建立に奉賛した氏子総代各位の御芳名が刻まれています。
文字は先々代宮司齊藤信臣の書によります。
七.御大典記念の碑(ごたいてんきねんのひ)
明治45年(西暦1912)年七月三十日 大正天皇が即位(天皇の位につく)されたのを記念して建てられた碑です。裏の碑文は明治24年品川用水(かんがい)水利権に関し訴訟問題が起こり用水利用者金子仲次郎氏外20名が荏原郡長に訴願したが認められず、更に明治28年東京府知事に上告し認められる迄の過程を記録したものです。
誠なる心を以ちてむかへなば
光輝く後の世までも
八.土搗(づつき)石のいわれ
この土搗石は、江戸時代より武蔵国荏原郡上蛇窪村に伝わる石です。住居、納屋などの普請がある度に村人が交替で手伝い歌を歌いながら敷地を固めた石 で(別名オカメサン)大正7年頃まで使用したものです。 平澤忠義氏より譲り受け社宝として後世に伝える ものです。
資料提供者 櫻井栄次氏
九.庚申橋(こうしんばし)
庚申橋は、大正末期頃まで渡ることができた立会川の橋げたです。現在の品川区立原っぱ公園信号機のあたりに橋があったようです。きれいな水が流れ、魚が沢山泳いでおり、子どもたちが水浴びに、魚取りにと賑わっていたようです。
十.石燈籠(いしどうろう)
大鳥居前の石燈籠は、昭和59年9月16日、氏子総代の久保虎次郎・スエ御夫妻(豊町五丁目在住)の御寄進によるものです。
十一.平成の大改修
現在の本殿及び手水舎は平成10年に、社務所は平成15年に、神輿庫は平成16年にそれぞれ建て替えが行われ、平成23年には拝殿屋根が改修されました。
これらは何れも氏子崇敬者の御浄財により行われたものです。
令和3年4月改訂
神は人の敬によりて威を増し 人は神の徳によりて運を添ふ
この言葉は、鎌倉幕府第3代執権の北条泰時が貞永元年(1232年)に定めた武家法「御成敗式目」の中に記されています。(因みに当地域「蛇窪」の開拓を命じたのは、北条泰時の弟、北条重時です。初代執権・北条時政の孫。尼将軍・尼御前と呼ばれた北条政子の甥にあたる) 「神は人から敬われることによって霊験があらたかになって益々その威力を発揮するようになり、 また人は、神を敬うことによって、より良い運を与えられる」という意味です。
人間の運や不運は、運命です。運命は人が運ぶ物です。神様から与えられるのではなく、運命は神さまの徳によって引き寄せてくるものです。 年間通して様々なお祭りがございますので、是非この機会に神さまへ感謝を捧げましょう!
神輿絵図について

隔年の連合渡御、神輿に明かりを灯し、小学校校庭に入り神輿練りと和太鼓のコラボレーションで最高潮を迎えます。これは、当神社の創建の史実にある東京埼玉一帯の大危機を救った691年前の雨乞いの断食祈願を再現したものです。更に神輿が中央で円を描くように集結し、同時に差し上げる時、千年以上前から蛇窪に鎮まる龍神さまが空を舞い、大海原にいさり火が灯されているような幻想的空間が現出されます。担ぎ手と観衆の気持ちが一つになり、国家の安泰を祈る神事です。この神事を深川在住の画家、長谷川清氏が版画で描いたものです。
蛇窪大明神について
当神社の旧社名は、神明社です。天(あま)照(てらす)大御神(おおみかみ)・天児(あめのこ)屋根(やねの)命(みこと)・応(おう)神(じん)天皇(てんのう)の御三柱をお祀りする以前は、蛇窪龍神社でした。創建の史実にある雨乞い祈願を白蛇が住んでいた(現在の消防団詰所)龍神社で行う際に、お稲荷さんもお祀り致しました。この祈願を基に構成されて建立された神社であり、御本殿に祀られる御三柱の他、稲荷社、弁天社に祀られる全ての神さまを総称して、“蛇窪大明神”と奉称致します。

蛇(へび)窪(くぼ)の「くぼっち」登場!

蛇の街にご当地キャラクター「くぼっち」が誕生いたしました。鎌倉時代に蛇窪に生息していた蛇の主。自称公家。ブサイクで気位が高く、お祓いの棒「カシコメ」を持っている。ふてくされているように見えるが、お願いすれば頭を「カシコメ」でお祓いしてもらえます。「くぼっち」はお祭りや、地元のイベントなどに呼ばれれば喜んで出現致します。
蛇窪村とは
昔、現在の二葉、豊町、戸越・西大井の一部は、蛇窪村と言われていました。
正保年間(1644年)蛇窪村が、上蛇窪村と下蛇窪村に分かれ、その後昭和七年十月に東京市内編入の際、氏神である神明社(現在の天祖神社)に因んで町名が上神明町、下神明町に改名されました。それから昭和16年4月の町内整備により豊町と二葉町とに再編成された。
また、昭和11年1月1日東急大井町線「蛇窪駅」が現在の「戸越公園駅」に改称されました。
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